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武田信玄の死因とは? [歴史上の出来事]

「信長のシェフ」シーズン2において登場している武田信玄には、既に死の影が忍び寄っています。

そのため「信長のシェフ」であるケンは、薬師としての役割を担うべく、甲斐に連れてこられ、「信玄のシェフ」にさせらてしまいました。

そもそも武田信玄は、どんな病気だったのでしょう?
その死因には、諸説あります。

肺結核、脳溢血、胃がん、肝臓病・・・・。

「信長のシェフ」では、ケンは信玄の体調について、かなり内臓が弱っている・・・・と看たてます。
そのため、消化に良いもの、身体に優しいもの・・・・そういったものを考えて、信玄に出していきます。

さらに第4話では、信玄は血を吐いていました。
これは何を意味しているのでしょう?

実際、武田信玄は倒れる直前に「血を吐いた」と記されている書物もあります。

胃がん説、または肺結核説が濃厚とされています。

「信長のシェフ」では、どの説がとられるのでしょう?

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信長のシェフで松永久秀が謀反! [歴史上の出来事]

『信長のシェフ』シーズン2の第3話で松永久秀信長に反旗を翻しました。

そのうちやりそうでしたが、思ったより早かったですね。

松永久秀は、歴史的に「日本で初めて爆死した男」と言われるように、壮絶な死を遂げます。
それは、信長に反旗を翻した末の出来事でした。

しかし、今回の謀反は、その時の謀反ではありません

実は、松永久秀は、謀反を起こしておきながら、あの織田信長に許されている稀有な人物なのです。

元亀3年(1572年)、久秀は、信長に対する叛意を明らかにします。
この時期、信長包囲網が形成されつつあった時です。

信長包囲網とは、足利義昭が声をかける形で形成された反織田信長連合です。
包囲網の参加者として、浅井氏・朝倉氏・三好氏・石山本願寺・延暦寺・六角氏・甲斐の武田信玄などがあげられます。

しかし、元亀4年(1573年、天正に改元)4月、包囲網の有力な一角である武田信玄が病死したことで形成が大きく変わります。
武田氏は撤退し、7月には足利義昭が槇島城の戦いで信長に敗れ、追放されることになりました。

12月末、松永久秀は多聞山城を織田軍に包囲されます。
そして、多聞山城を信長に差し出し、降伏したのです。

再び信長に服属した久秀に、その後、目立った動きはありませんでした。
しかし、天正5年(1577年)に、あの壮絶な死を遂げる謀反を再び起こすのです。

今回、『信長のシェフ』で起こした謀反は、元亀3年(1572年)の謀反ですね。

この時、久秀は、なぜ信長に許されているのでしょう?
いえ、信長はこの時だけでなく、天正5年(1577年)の謀反でも久秀を許そうとしていたのです。
その時の条件は「平蜘蛛茶釜を差し出すこと」でした。

それだけ、松永久秀という人物は信長にとって価値ある人物だった・・・・ということでしょうか。

『信長のシェフ』の中でも、信長は久秀の動向に注意を払いながらも、利用価値のある人物として描かれています。

今回のドラマは、歴史的にどこまで進むのか分かりませんが、久秀がどのように描かれていくのか楽しみです。(^^)


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松永久秀が信長に献上した茶器 九十九髪茄子 [歴史上の出来事]

『信長のシェフ』シーズン2で登場するようになった笹野高史さん演じる松永久秀
その暗躍ぶりが話題になっています。
笹野さんの演技も何とも憎たらしいんですよねぇ・・・・。

裏切り、暗殺など悪逆の限りをつくし、「日本で初めて爆死した男」と言われるような最期を遂げることになります。

しかし、一方で、連歌や茶道に長けた教養人としても知られています。

茶器の収集家としても知られていました。

例えば、古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)
平蜘蛛茶釜(ひらぐものちゃがま)とも呼ばれています。

1577年(天正5年)、信長に反逆して敗れるものの、名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば許すと言われます。
しかし、「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ。粉々に打ち壊すことにする」と返答し、平蜘蛛を天守で叩き割り、爆死しました。
一説には、茶釜に爆薬を仕込んだとも言われています。

松永久秀が所有していた茶器といえば、平蜘蛛茶釜以外に有名なもので九十九髪茄子(つくもなす)があります。

九十九髪茄子は、元々、室町幕府の三代将軍足利義満が所有した唐物茶入です。
その後、代々足利将軍家に伝わって愛用されました。

八代将軍足利義政の時、寵臣の山名政豊に与えられましたが、15世紀末になって義政の茶道の師である村田珠光の手に渡りました。
このとき珠光が99貫で買ったことから、「つくも」という名前になったと言われています。

その後、持ち主は転々と変わり、同時に値も上がっていきました。
詳しい経路は不明ですが、松永久秀が手に入れる際は、1千貫を費やしたとされています。

久秀が所持した頃は、当時の茶人の羨望の的となっていました。

『信長のシェフ』では、松永久秀が織田信長に恭順の意を示すために自ら九十九髪茄子を差し出したことになっていましたが、実際には、信長に要求されて、なす術もなく献上することになったようです。

それをケンは、出汁を入れて出すわけですから、それは久秀も怒るでしょうね。(^^;

信長の手に渡った九十九髪茄子は、その後、信長のお気に入りにもなり、本能寺の変のときも信長の側にあったとされています。
この時、この時に灰燼に帰したと思いきや・・・・

その後、秀吉の手に渡っているのです。

ここが謎なのです。
これには、次のような説があります。

・同じ茶器がもう1つあったとする説
・本能寺焼け跡で羽柴秀吉が入手し、子の豊臣秀頼に渡ったとする説
・本能寺の変の前夜に織田信忠に与えられ、彼が二条城に持ち帰り、変の当日に同じく二条城に泊まっていた織田長益(後の有楽斎)が持って逃げ、後に彼が秀吉の御伽衆になったため大坂城に入ったとする説

何れにしても、大坂城に置かれた九十九髪茄子は、大坂夏の陣で再び戦火にさらされます。

徳川家康の命令によって焼け跡から探し出されましたが、かなり破損していたため藤重藤元・藤厳という漆塗りの名工父子に修理のため預けられました。
しかし、家康はあまり茶器への執着はなかったようで、そのまま藤重家に渡ります。
藤重家は、「東照大権現拝領の家宝」として伝えました。

そして、明治になって三菱財閥の2代目総帥である岩崎弥之助(岩崎弥太郎の弟)の所有となります。
この時、弥之助は兄から借金をしてまで買ったといいますから、かなりの高額だったのでしょう。

現在は東京の静嘉堂文庫美術館で保管されています。
釉と見られる景色等の表面を覆う部分はほぼ漆による修復であると、X線調査で判明しています。

しかし、「一度しか焼けていない」という結果も出ており、これは、「本能寺の変」では焼けていないことの証明にもなるのではないでしょうか。

茶器にも「歴史あり」といった感じがしますね。

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信長 比叡山焼き討ちの真実!? [歴史上の出来事]

7月17日に放送された『信長のシェフ』シーズン2の第2話では、とうとう織田信長が比叡山焼き討ちを宣言します。

「全てを焼き尽くせ」という信長の言葉を、家臣たちは「女子供まで皆殺しにせよ」と捉えて動揺します。

過去、信長に関する書物やドラマでは、比叡山焼き討ちの残虐さを伝えるものが数多く存在し、有名な事件の一つです。

ところが、この『信長のシェフ』で描かれた比叡山焼き討ちは、これまでとはちょっと違っていました。

主に戦場となるのは、比叡山の麓の町である坂本。
織田軍は、比叡山に入るには入るものの、ほとんど人の姿は見られず、焼く寺は2、3に過ぎません。

比叡山の僧衆の多くは坂本に下り、生活の場もすでに山を離れていました。
比叡山は仏教の聖地として、ただ象徴となっていただけで、既に実体はなくなっていたのです。

『信長のシェフ』では、信長はそのことを知っていた上で、この焼き討ちを行っています。

では、何故、あえて比叡山焼き討ちを行う必要があったのでしょう?

比叡山は、遠く京からも見える山。2、3の寺を焼いても、その煙は見ることができます。
「逆らう者は許さない」という信長の姿勢を示すためのパフォーマンスとして行われた・・・・ケンはそう理解しました。

では、実際、比叡山の焼き討ちとは、どのようなものだったのでしょう?

延暦寺焼き討ちの残虐さを記録した資料は、書いた人のほとんどはその場にいない人たちです。
「言継卿記」を書いた公家の山科言継(やましなときつぐ)も、「御湯殿上日記」を代々書いてきた朝廷の女官たちも、伝聞を書いたにすぎません。

信長の家臣であった太田牛一の『信長公記』には、「軍勢を山にのぼらせて根本中堂・山王二十一社をはじめ霊仏・霊社・経巻のことごとく、一宇も残すところなく焼き払わせた」との記述があり、信頼度が高いとされていますが、この方・・・・文才があり過ぎて、誇張する傾向にあった・・・・とも言われています。

比叡山焼き討ちの前年、英俊という僧侶が比叡山の延暦寺を訪れた時のことを書き残しています。
そこには、「山内は人影もまばらで建物は荒廃し、人里に遊びにでも行って帰ってこないのであろうか」とあるのです。
これは焼き討ちの前年には延暦寺からは既に往時の賑わいが失われ、女子供がいるような状況ではなかったことを示しています。

また、昭和31年に行われた比叡山の発掘調査でも、延暦寺が「元亀の法難」と称している焼亡の跡だといえるものは、根本中堂と大講堂のみであるということが判明しています。
元亀以前に既に廃絶しているものが大半を占め、元亀の焼亡を示す例は、極めて少なかったそうです。
出土遺物についても、年代的に見て戦国時代のものはほとんどなく、平安時代の遺物が多ったといいます。

実は比叡山焼き討ちとは、1571年(元亀2年)の織田信長による焼き討ち以前にも行われているのです。

まずは、1435年(永享7年)
室町幕府六代将軍の足利義教が比叡山と対立。
制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首します。
これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難。しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは、根本中堂に火を放って焼身自殺を遂げました。

根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したとされています。
また、このときに円珍以来の本尊もほぼ全てが焼失しました。

次に、1499年(明応8年)の比叡山焼き討ちです。
管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰したのです。
(根本中堂は、足利義教によって再建されていました)

なお、比叡山焼き討ちに関わった足利義教、細川政元、織田信長のいずれもが家臣によって殺されているのは、何か因果めいたものを感じます。

さて、ちょっと話がそれましたが、信長の比叡山焼き討ちに話を戻します。

織田信長による比叡山焼き討ちは、行われたのかもしれませんが、全山を焼くような大規模なものではなかったのでしょう。
『信長公記』に書かれているような放火炎上や大殺戮は、坂本の町に集中して行われたのではないでしょうか。

『信長のシェフ』では、女子供は織田軍によって避難させられていますが、町が戦場になったからには、巻き込まれて多数の死者が出たと考えたほうが自然だと思います。

『信長のシェフ』では、これまで当たり前のように描かれていた「比叡山焼き討ち」を新しい角度で描いていたのが新鮮でした。
こういう説が広く知られるのはいいことだと思います。

信長の「殺してしまえホトトギス」の例えが、教科書から消える日が来るかも!?


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