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信長のシェフで松永久秀が謀反! [歴史上の出来事]

『信長のシェフ』シーズン2の第3話で松永久秀信長に反旗を翻しました。

そのうちやりそうでしたが、思ったより早かったですね。

松永久秀は、歴史的に「日本で初めて爆死した男」と言われるように、壮絶な死を遂げます。
それは、信長に反旗を翻した末の出来事でした。

しかし、今回の謀反は、その時の謀反ではありません

実は、松永久秀は、謀反を起こしておきながら、あの織田信長に許されている稀有な人物なのです。

元亀3年(1572年)、久秀は、信長に対する叛意を明らかにします。
この時期、信長包囲網が形成されつつあった時です。

信長包囲網とは、足利義昭が声をかける形で形成された反織田信長連合です。
包囲網の参加者として、浅井氏・朝倉氏・三好氏・石山本願寺・延暦寺・六角氏・甲斐の武田信玄などがあげられます。

しかし、元亀4年(1573年、天正に改元)4月、包囲網の有力な一角である武田信玄が病死したことで形成が大きく変わります。
武田氏は撤退し、7月には足利義昭が槇島城の戦いで信長に敗れ、追放されることになりました。

12月末、松永久秀は多聞山城を織田軍に包囲されます。
そして、多聞山城を信長に差し出し、降伏したのです。

再び信長に服属した久秀に、その後、目立った動きはありませんでした。
しかし、天正5年(1577年)に、あの壮絶な死を遂げる謀反を再び起こすのです。

今回、『信長のシェフ』で起こした謀反は、元亀3年(1572年)の謀反ですね。

この時、久秀は、なぜ信長に許されているのでしょう?
いえ、信長はこの時だけでなく、天正5年(1577年)の謀反でも久秀を許そうとしていたのです。
その時の条件は「平蜘蛛茶釜を差し出すこと」でした。

それだけ、松永久秀という人物は信長にとって価値ある人物だった・・・・ということでしょうか。

『信長のシェフ』の中でも、信長は久秀の動向に注意を払いながらも、利用価値のある人物として描かれています。

今回のドラマは、歴史的にどこまで進むのか分かりませんが、久秀がどのように描かれていくのか楽しみです。(^^)




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