松永久秀が信長に献上した茶器 九十九髪茄子 [歴史上の出来事]
『信長のシェフ』シーズン2で登場するようになった笹野高史さん演じる松永久秀。
その暗躍ぶりが話題になっています。
笹野さんの演技も何とも憎たらしいんですよねぇ・・・・。
裏切り、暗殺など悪逆の限りをつくし、「日本で初めて爆死した男」と言われるような最期を遂げることになります。
しかし、一方で、連歌や茶道に長けた教養人としても知られています。
茶器の収集家としても知られていました。
例えば、古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)。
平蜘蛛茶釜(ひらぐものちゃがま)とも呼ばれています。
1577年(天正5年)、信長に反逆して敗れるものの、名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば許すと言われます。
しかし、「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ。粉々に打ち壊すことにする」と返答し、平蜘蛛を天守で叩き割り、爆死しました。
一説には、茶釜に爆薬を仕込んだとも言われています。
松永久秀が所有していた茶器といえば、平蜘蛛茶釜以外に有名なもので九十九髪茄子(つくもなす)があります。
九十九髪茄子は、元々、室町幕府の三代将軍足利義満が所有した唐物茶入です。
その後、代々足利将軍家に伝わって愛用されました。
八代将軍足利義政の時、寵臣の山名政豊に与えられましたが、15世紀末になって義政の茶道の師である村田珠光の手に渡りました。
このとき珠光が99貫で買ったことから、「つくも」という名前になったと言われています。
その後、持ち主は転々と変わり、同時に値も上がっていきました。
詳しい経路は不明ですが、松永久秀が手に入れる際は、1千貫を費やしたとされています。
久秀が所持した頃は、当時の茶人の羨望の的となっていました。
『信長のシェフ』では、松永久秀が織田信長に恭順の意を示すために自ら九十九髪茄子を差し出したことになっていましたが、実際には、信長に要求されて、なす術もなく献上することになったようです。
それをケンは、出汁を入れて出すわけですから、それは久秀も怒るでしょうね。(^^;
信長の手に渡った九十九髪茄子は、その後、信長のお気に入りにもなり、本能寺の変のときも信長の側にあったとされています。
この時、この時に灰燼に帰したと思いきや・・・・
その後、秀吉の手に渡っているのです。
ここが謎なのです。
これには、次のような説があります。
・同じ茶器がもう1つあったとする説
・本能寺焼け跡で羽柴秀吉が入手し、子の豊臣秀頼に渡ったとする説
・本能寺の変の前夜に織田信忠に与えられ、彼が二条城に持ち帰り、変の当日に同じく二条城に泊まっていた織田長益(後の有楽斎)が持って逃げ、後に彼が秀吉の御伽衆になったため大坂城に入ったとする説
何れにしても、大坂城に置かれた九十九髪茄子は、大坂夏の陣で再び戦火にさらされます。
徳川家康の命令によって焼け跡から探し出されましたが、かなり破損していたため藤重藤元・藤厳という漆塗りの名工父子に修理のため預けられました。
しかし、家康はあまり茶器への執着はなかったようで、そのまま藤重家に渡ります。
藤重家は、「東照大権現拝領の家宝」として伝えました。
そして、明治になって三菱財閥の2代目総帥である岩崎弥之助(岩崎弥太郎の弟)の所有となります。
この時、弥之助は兄から借金をしてまで買ったといいますから、かなりの高額だったのでしょう。
現在は東京の静嘉堂文庫美術館で保管されています。
釉と見られる景色等の表面を覆う部分はほぼ漆による修復であると、X線調査で判明しています。
しかし、「一度しか焼けていない」という結果も出ており、これは、「本能寺の変」では焼けていないことの証明にもなるのではないでしょうか。
茶器にも「歴史あり」といった感じがしますね。
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その暗躍ぶりが話題になっています。
笹野さんの演技も何とも憎たらしいんですよねぇ・・・・。
裏切り、暗殺など悪逆の限りをつくし、「日本で初めて爆死した男」と言われるような最期を遂げることになります。
しかし、一方で、連歌や茶道に長けた教養人としても知られています。
茶器の収集家としても知られていました。
例えば、古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)。
平蜘蛛茶釜(ひらぐものちゃがま)とも呼ばれています。
1577年(天正5年)、信長に反逆して敗れるものの、名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば許すと言われます。
しかし、「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ。粉々に打ち壊すことにする」と返答し、平蜘蛛を天守で叩き割り、爆死しました。
一説には、茶釜に爆薬を仕込んだとも言われています。
松永久秀が所有していた茶器といえば、平蜘蛛茶釜以外に有名なもので九十九髪茄子(つくもなす)があります。
九十九髪茄子は、元々、室町幕府の三代将軍足利義満が所有した唐物茶入です。
その後、代々足利将軍家に伝わって愛用されました。
八代将軍足利義政の時、寵臣の山名政豊に与えられましたが、15世紀末になって義政の茶道の師である村田珠光の手に渡りました。
このとき珠光が99貫で買ったことから、「つくも」という名前になったと言われています。
その後、持ち主は転々と変わり、同時に値も上がっていきました。
詳しい経路は不明ですが、松永久秀が手に入れる際は、1千貫を費やしたとされています。
久秀が所持した頃は、当時の茶人の羨望の的となっていました。
『信長のシェフ』では、松永久秀が織田信長に恭順の意を示すために自ら九十九髪茄子を差し出したことになっていましたが、実際には、信長に要求されて、なす術もなく献上することになったようです。
それをケンは、出汁を入れて出すわけですから、それは久秀も怒るでしょうね。(^^;
信長の手に渡った九十九髪茄子は、その後、信長のお気に入りにもなり、本能寺の変のときも信長の側にあったとされています。
この時、この時に灰燼に帰したと思いきや・・・・
その後、秀吉の手に渡っているのです。
ここが謎なのです。
これには、次のような説があります。
・同じ茶器がもう1つあったとする説
・本能寺焼け跡で羽柴秀吉が入手し、子の豊臣秀頼に渡ったとする説
・本能寺の変の前夜に織田信忠に与えられ、彼が二条城に持ち帰り、変の当日に同じく二条城に泊まっていた織田長益(後の有楽斎)が持って逃げ、後に彼が秀吉の御伽衆になったため大坂城に入ったとする説
何れにしても、大坂城に置かれた九十九髪茄子は、大坂夏の陣で再び戦火にさらされます。
徳川家康の命令によって焼け跡から探し出されましたが、かなり破損していたため藤重藤元・藤厳という漆塗りの名工父子に修理のため預けられました。
しかし、家康はあまり茶器への執着はなかったようで、そのまま藤重家に渡ります。
藤重家は、「東照大権現拝領の家宝」として伝えました。
そして、明治になって三菱財閥の2代目総帥である岩崎弥之助(岩崎弥太郎の弟)の所有となります。
この時、弥之助は兄から借金をしてまで買ったといいますから、かなりの高額だったのでしょう。
現在は東京の静嘉堂文庫美術館で保管されています。
釉と見られる景色等の表面を覆う部分はほぼ漆による修復であると、X線調査で判明しています。
しかし、「一度しか焼けていない」という結果も出ており、これは、「本能寺の変」では焼けていないことの証明にもなるのではないでしょうか。
茶器にも「歴史あり」といった感じがしますね。
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